『僕のことを少しお話します。』
実は、僕の母も先生をしていたことがあるのです・・・。
僕の父は高知県の幡多郡の出身です。戦後の復興途上で生活もままなら
なかった父は、当時の日本政府の南米移民政策に応募して、両親、兄弟を
引き連れて1958年船出しました。ついたところは、パラグアイでした。そこ
はジャングルの真只中。何家族もの人たちは、協力してジャングルを切開き
始め、数年で日本人移住者の村ができました。そこで農業を始めたので
す。やっと生活が安定すると日常生活に必要なものが出てきました。学校も
そのひとつです。パラグアイ政府は、村に屋根だけ載せた簡易な学校を建
てスペイン語教育のため先生を派遣してきました。しかし、日本人としての
誇りと文化を守ろうとする移住者は、派遣されてきた教師を受け入れようと
はせず、つらくあたった為、何人もの教師が村を去りました。そんな中、首
都アスシオンで、当時の大統領の第一秘書をしていた女性は、日本のジャ
イカと関係が深く、日本人の移住した村に先生がいないことを知って、友人
に村の教師を勧めました。その友人というのが、僕の母なのです。母は村に
教師として赴任してきました。そして、村の子供達のため一生懸命教育しよ
うと頑張りましたが、やはり日本人からの協力は得られず、傷心のうち村を
去ってゆくことになりました。しかし、母の人柄に好感をもっていた日本人村
のリ−ダ−だった山崎さんという方は、母が村を去ってしまったことを大変
残念に思い、自ら隣の町にいた母に、村に戻ってくれるように説得に行きま
した。。村の人たちも山崎さんに説得されて、母は快く迎え入れられることに
なり再び村に戻りました。そんないきさつの中、以前から先生(母)に好意を
抱く青年がおりました。それが父です。父は学校に通う自分の妹に、何回も
ラブレターをたくしました。それからおつき合いが始まって、そして結婚する
ことになったのです。もちろんこのお話は僕が生れる前のことです・・・。
63年に生れた兄と65年に生れた僕は、71年に家族全員でアルゼンチン
に移住しました。僕は小学校から大学までをアルゼンチンで過ごし、大学で
は電気を専攻することになりました。しかし、はじめてみると自分に合ってな
いことがわかって音楽大学に移り大好きな音楽を学びました。
その当時のアルゼンチンは、大変なインフレが進み、不況の真只中。大学
を出ても就職することもできないような社会事情の中、友人や知人が何人も
日本に出稼ぎに出ていました。その友人たちから、日本での生活を聞き、日
本に行ってみたいと思うようになり、1990年、24歳の時に来日したので
す。もともと日本の戸籍を持っていたので日本人としての帰郷でした。
そして、鎌倉の企業に就職してサラリーマン生活に入りました。
それ以来のサラリーマン生活でしたが、たまたま同じ職場で出会った大木
岩夫さんとフォルクローレグループ【ライセス】を結成し、音楽活動も開始し
ました。
【ライセス】の他にさまざまなアーティストとのジョイント活動もやっていま
す。2001年には、ロス・トレス・アミ−ゴスのRickyと、ソロとして活動してい
る歌手のIchiyoとのトリオや、アルゼンチンのギターリスト/カルロス・ペス
とのデュオもスタートさせ、大好きな音楽を自分の仕事とした、本格的な活
動に入りました。ギター演奏の他に、得意の作曲やアレンジなど、これから
もますます自分のライフワークとしての音楽を追求し続けてながら、母国語
スペイン語の教師としても、母のような尊敬される教師になれるようにがん
ばります!どうぞよろしく〜〜〜!!!
Cachoより
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